夏の早朝、もやのたつ日には、ヴァルハラのバルコニーに出かける。

大抵は早起きのムニン一人で、
時には鳥と言う本質を持つくせに朝に弱く、眠そうで不機嫌なフギンを引きずるようにして。

今日は一人で出かけることにした。
朝食も後回し、身じたくもそこそこに部屋の窓を開け、ベランダを歩く数歩のうちに一羽のワタリガラス…
ムニンにとっては本質とも言うべき漆黒の鳥の姿に身を変え(だから、身じたくなどそんなに必要ではない)、
涼しい朝の風を受けながら飛び立った。

いそいそと出かけるいつもの場所は、外観からは内装の華麗さを感じさせない無骨で巨大な塔に近い形をしたヴァルハラの上層部にある。

黄色味の強い褐色の石を積んで作り上げた城は、遠目には少しだけ先細りになった四角柱の形をしている。
比率でいうなら、茶色のケーキに登ろうとする蟻よりも小さいカラスの姿のムニンは、
城にさえぎられて不服げに巻き上がる風を利用してヴァルハラの壁にそって急上昇し、
時折宙に向かって突き出た渡り廊下や出窓、鐘楼の間を縫うようにしてさらに高い場所を目指す。

バルコニーというよりもその屋根で、翼を持たないものたちにとっては一歩足を踏み外せば断崖絶壁から投げ落とされたに等しい高さの場所だ。

目的の場所に着くとムニンは再び人の姿をとる。
屋根の上で座るには鳥の姿の方が都合が良いけれど、頬を撫でる朝の風を感じるには人の姿の方が心地良いから。
そこに座って眺める、明けゆくアスガルドの地平はすばらしく贅沢なパノラマだ。

まだ明けきらぬ時刻でも夏の緑に染まっていることを感じさせる草原に、岩場や森が点在し、
誰かが置き忘れたガラス片のような湖沼や、
夜でも昼でもない、色のない空を映して白く光る川が見える。

時には野を行く動物の群れが、小さな影として見えることもあれば、
ねぐらから餌場へと急ぐ鳥たちが、静寂を破るのをおそれるように ひそやかに鳴き交わしながら頭上をかすめて飛び去って行くこともある。


そして……。


そのはるか先、空と地平の接する所には、そびえたつ世界樹、ユグドラシル。


それはにわかには木とは見えない。

朝もやにかすんだ大樹の幹は、とてつもなく高く幅広く、すべてを峻拒する断崖のように見える。

しかし意外に繊細で優美な曲線を描いて突き出した枝は、ただひと枝だけでも深い森を成し、あまたの生き物を受け入れ育み、
根元には多くの泉や小川を持ち、水場や餌場として鳥や獣が集まる場所。

世界そのものを、縮図と言うにはあまりに壮麗な箱庭として集約する大樹。

アスガルドの住人たちの住まいは、母なる世界樹が女王のように君臨するこの眺めの前にはごくささやかで、
近くで見れば天をつくばかりに巨大な神々の城でさえも慎ましく見えた。


やがて東の空が赤みを帯び、次に黄色がさし、そのうちに灼熱の白銀になり、太陽が顔を出すと、
空は流れる雲もさまざまの色に染まる万色の朝焼けになる。

朝もやは吹き払われ、谷に、丘の合間に次々と追いやられてゆく。


いきいきと夏の朝の光に色付いてゆく世界を眺めるムニンの背に、
はじけるような勢いで漆黒の翼が現れた。

それは、翼持つものだけが知る衝動。

羽毛も生えそろわない雛の頃からオーディンのもとでフギンに育てられたムニンは、
そのほとんど本能的な感覚が自分にそなわっていることの方がむしろ不思議だった。

仲間の翼を横にしながら空を駈ける誇りと喜びを、この身は知らない…はずなのに。

頭上を偶然通り過ぎようとしていた鳥の群れを追って数歩駆け出した足は、しかし次の一歩を踏み出すことなく立ち止まった。
朝もやを吹き払い、彼の銀髪をかすめるほどの高さを飛び去って行く鳥たちの翼を励ます同じ風にムニンの背中の翼は散り、
今確かに実体を持っていた羽根は次の瞬間、塵になって霧散する。

花が散るよりも軽くはかなく消えた翼を惜しむこともなく、ムニンの唇はわずかにほころぶ。
自分は、どんなに憧れても彼らと一緒には行けない。


世界はここから眺めるこの景色のように完璧に美しくはないけれど、
繕うことのできないその瑕さえも大切に抱きしめていこうと自分は決めた。


この身に刻まれた世界の記憶は重々しく、それを消し去って
ただ一羽の鳥になって数年の命を全うすることも今の自分にはたやすい。
でも、捨てるにはあまりにも愛おしい。


この世界は終わるとフギンは言った。

何も残らない最後の日がいつか来ると。

そしてその時までの世界の記憶をすべて引き受けるのが、自分の役割だと教えられた。

悲しみも苦痛もすべて、味わったその瞬間の鮮烈な痛みのまま記憶しつづけなければならないのは今でもひどく恐ろしい。


けれどこの景色…日々くり返されながらも万変の彩りを持つ何千の朝の美しさの前には、それも少しやわらぐ。

夏の朝はことさらにいきいきと美しい。
でも本当は雨のそぼ降る日も、
満天の星空の下、呼び交わすようにかすかな明かりが点々とともる夜も、
芽ぶきのよろこびにわきたつ春も、
枯れゆく秋の景色も、銀白のまばゆい冬も大好きだ。

失いたくないけれど、いつか失われる日が来るというのなら、
この美しさをいつか誰かに伝えるために記憶し続けよう。

ムニンの頭上をまた、別の鳥の群れが今はにぎやかに声をあげながら飛び去って行く。
彼の目とよく似た深い青に色を増した夏の空に、華やかなうすもも色の翼が鮮やかな彩りをそえた。





  
2〜3年前に書いたと思しき短文が出てきました…^^;
「セクレタリー」中の「いろいろ」などではおなじみ(?)、北欧神話をベースにしたみねの半オリジナルキャラクター・ムニン視点っぽいものです。

北欧神話に出てくるワタリガラスのムニンは、主神オーディンに仕える、記憶を司る生き物。

みね版では普通のワタリガラスを「世界が生まれてからこれまでのすべての記憶」を持ち、あらゆる生き物と記憶を共有することのできる存在に作り変えた生き物、という設定。普段は人間の姿です。